昭和50年08月01日 朝の御理解



 御理解 第50節
 「とかく信心は地を肥せ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えて居れば肥をせんでもひとりでに物が出來るようなものぞ。」

 五十節と云う、五十と云う事は丁度真中と云う事です。百が終りなら五十というのは丁度真中。教祖のお言葉ですると今半(いまなか)と云う事です。私はこの今半と云うか、今が真っ最中と云うかその半(なか)であると云う事。途中であると云う事が、大体は一番新鮮な、一番素晴らしい、楽しみのある時季じゃないかと思うですね。いわゆる咲いた花より蕾の方が楽しい、そういう様な感じが致します。お道の信心は御神徳を頂くと云う事に絞られて良いと思うです。
 その事を教祖自身が御体験なさり、天地金乃神様から直伝をそのまま天地の親神様のお心をそのまま私共に教えて下さる。ですから、そのお心に添い奉ると云う行き方、そういう行き方に神様の御信用、神様の御神徳が受けられると云う訳です。なら今日の御理解を頂きますと、とかく信心は根を肥せと、いわゆる根を肥しておると云う最中、惟も根肥し、あれも根肥しとどん欲なまでに自分の心の上に。
 自分の信心の上に根肥しとさせて頂いておる。その根肥しをさせて頂いておるその事が自分でも了解ると云う事が素晴らしい。地が段々肥えて行く。云うなら自分の心が愈々大きく豊になって行く。私はあの成程人間のまあ幸と云うか、と云う事は自分の心が大きくなると云う事。問題が問題で無くなって來ると云うのですから、大きくなればこまいこまいと云う事で片付けて行けれる。
 どんな煩わしい問題が起きても、これを自分の心が大きくなって行く為のそれが根肥しだと思うたら、有難くそれを受けて行けれる。大きゅうなれ、大きゅうなれと云う事である。同時にです、矢張り豊にならなければいけません。心が段々優雅になっていかねばいけません。先日或方が、もう随分お金を貸して随分なるけれども、先方からは何とも云うて来ない。息子さんがおとなしいから、それを催促しきんなさらん。まあしきんなさらん訳ではないでしょうけれども、しなさらん。
 そこで側で見ているお母さんの方がむしろ神経を病んでおられて。だから私が一遍請求をしてみたいと云う事であった。 そしたら神様から大きく豊にと云う事を頂きました。私は大きくなれ大きくなれと云う事だけでも人間は楽になりますね。問題が問題でなくなるですから、けれども豊になると云う事はね、その支払いをしない相手の人の事でも祈れる心ですね。
 豊かな心と云うのは、私はその大きくなるだけではないけん。大きく豊かになって行かねば、いろんな大きくなって行く材料、豊になって行く所の材料と云うものは、日常の上に沢山ある。心掛けておきますと、第一自分の心の豊かさ所か貧しさを自分で判るです。豊かさは中々判らんけれども、貧しさは心掛けとけば何と汚い心じゃろうかと云う事が分かる。もう自分ながら愛想のつきる汚い心がある。
 だからそういう心をです、言わば私共はしっかりそれを掴んで、そしてその所を改めて行く、研いて行く事に精進する訳です。本当にその心が大きくなって問題が問題でなくなる。心が優雅で豊でそれこそ相手の、普通で云うならばどうした奴じゃろうか、どうした人じゃろうかと思う上にでも思いをかける。思いを送ってやれると云う事は素晴らしい事だと思うです。そういう根肥しが出来る。そういう稽古をさせて頂いておる、私は道中が素晴らしいと思う。或意味で皆さんはそういう道中であると思う。
 これは私を含めてそうです。御神徳と云うのは、あの世に持って行け、この世にも残しておけれる、何時までも悪くならないと言った様なものなんですけれどもね。例えば果物の柿に例えますならば、段々渋が抜けてぐったりとした様なね、それこそ味は大和の吊し柿と言った様なね、言った所が一番美味しいでしょうが。あれが乾し上がってしまって干柿になったのではもう固くなって、その変り何時までもおいて置けれる訳です。云うならば生の魚と缶詰の様なものです。
 お徳と云うものは私は缶詰の様なものです。何時まで置いても悪くならない、あの世にも持って行け、この世にも残して置けれる。何処へ行く時でも、それを持って行けれれる。しかし生魚とか肉というのはそういう訳にはいかんけれども、その時に水のしたたる味わいと云うものは、私はそこにあると思うです。生々しい時に言わば人間臭ぷんぷんと云うとき、そこでです私共がこの道さへ歩いて行けば、この信心さえさして頂けば、御神徳が受けられると云うその軌道にだけは、お互い乗っておかねばいけません。
 神様を信じて疑わない確信の世界です。昨夜は月末御礼会で、信話会が御座いました。皆さんの色々体験を聞かせて頂きましたんですけれども、昨日の夏期信行の終りで、四、五人の方が体験発表をなさいました。その中で皆さん誰の話が一番おかげ頂いたか、誰の話が一番良かったでなくて、おかげ頂いたかと。そしたら異口同音に勝国君のお話、青年会を代表してが一番おかげを頂いたと云う人が多かったです。お話が上手であったとは思いません。ポツンポツンとではありました。
 けれどもおかげを受けたと言う事は、もう本当に感動をしたと云うております。私もそうでした。矢張り赤裸であると言う事は素晴らしいですね。普通で云うなら隠しておきたい、人の前でも話されないと言った様な、それこそ青年らしいお話でした。好きな人があった。失恋をした。その失恋の痛手とも申しましょうか、もうどうにも出来ない苦しみを語っとりました。その苦しいからその事を親先生にお取次を頂いた。そしたら親先生は勝国君、おかげ頂いたねと云わっしゃった。
 それっきり自分の心の中にです、スッキリとまではそれはいかないにしましてもです、有難いものが取って代わったと云う。今までも寝ても覚めても忘れられん様な、それこそ胸がい痛んで、向こうさえ突き抜ける様な痛さをです、感じられるもんです。けれどもお取次を頂いてです、そこから有難いものが頂けて、この一月間の夏期信行に掛けたと、相手の彼女の事も祈れる様な豊かさになれて来たと云う事を、それだけでしたけどね、私は本当に感動しました。
 やっぱり赤裸々なもんじゃなければいけない。同時に皆さんの話は素晴らしかった。皆素晴らしかった。もう本当に言わば新しいと云うか、つい最近の合楽の信心を頂いておられる新しい人達ばっかりでした。斬新さがあった。中に〇少を代表して佐田さん所の富美恵さんが発表しておりました。そりゃあもう子供の発表と思われない様な、いわゆるもう生々しい信仰体験でした、もうそれこそラッパを吹き出したち云うですかね、バンドに入っとりますから、それが吹かれん様になった。
 歯が痛むそれがもう痛み続ける。一寸歯医者に行ったけど、行かんと決めた。そして見事におかげを頂いたと、もう素晴らしい合楽の信心の、合楽の人でなければ話せない様な。しかしこれは今の金光教にはあんな話は受けんだろうと云うて話した事でした。合楽はもうそげな事云うから合楽の信心は間違っとると云うか知れません。けれどもね、親先生が何時も口癖の様に言う、薬は毒だと云う事を本当に信じようとしとる訳です。又事実そうです。昨日でしたか、高芝さんの奥さんがお届けをした。
 親先生が毒だみば飲みござる。自分も体が悪かったから、毒だみばあれなら飲んだっちゃよかろうと思うてから、飲んだところが、さあ腹が痛うなってと云う話であった。だから高芝さん、あんたがこれば飲んだら良うなろうと思うて飲んだろうと私が申しました。もそこに薬にしとるです。私は沢山お水を頂くし、コカコーラなんか、けど毒だみの味と云うものがです、もう素晴らしい味に感じるんです。
 ですから水とかコーラの代わりに美味しゅう飲んでおるだけであって、これを飲んだら効こうてんなんてん毛頭考えてもいないです。そりゃ漢方薬なら良かばってん、薬は絶対毒です。只ね薬が変じて薬になる。その所には合うかも知れませんけれども、どこにか毒になっとるです。もう皆さんどうかありゃすぐ薬てん何てんちゅう、頭にピンと來るときには、まだ神様を確信しとらん時ですから。
 ほんとに一つ痛かったっちゃですね、苦しかってももうほんとに例えば、飲まにゃおられんなら御神米、飲まにゃ居られんなら御神酒と云う様にしておかげ頂かにゃいけません。先日も日田から毎日日参して來る婦人の方が、沢山薬を買い込んどる。勿体なかちゅう訳です。薬は毒だと、だから私が筑後川に流しなさいと幾らがとあったっちゃ良いじゃんの、それを勿体なかけんで誰かにやろう、人にやろうてんなんてん云うなら、その人も又毒になるじゃんの。
 私はね、昨日富美恵さんの話を聞かせて頂いて、こう云う風にして育って行くなら大丈夫と思うたし、私どんがそうでしたもん。子供の時から、何時も云う様に私のばばは、土をいわば傷口に付けて呉れました。さあ頭が、学校に行くでん何でんおかしか位じゃった。初めの間は頭痛がする時には、ここからこう私は貼りよりましたもん、御神米を。御神米、御神紙、御神酒さんでおかげを頂いて来た。実を云うたら飲まんでん、付けんでんおかげ頂かにゃ駄目です。
 だからここでは御神米なんか滅多に下げないでしょうが。本当云うたら御神酒、御神米は頂かんでもおかげが頂けれるです。自分の心次第です。自分の信心次第なんですから。本当に神様を信じたいならね、私はその位な一つのまあ冒険と云うかも知れませんけれども、それを実を云うたら本当なんだから、本当の事を分かるためにです、体験者が語っとるんだから間違いないです。そういう例えば稽古中と云うのが素晴らしいと云うのです。とかく信心は根を肥せ。
 私はそういう行き方の中に、言わば愈々核心へ向かって進ませて頂いとる。愈々心が肥える。根が肥えて來る所のおかげになって來るのです。昨日信話会の一番初めにお話をさせて頂いた。今月という今月はもう大変な月でしたねと。内外共に大変な月だった。その第一が母のお国替えであった。第二が北九連の百何十名の方が此処に一泊信心研修をするために、皆さん方が一同でそれこそ打って一丸になって、その事の御用に当たった。五六十枚しかなかった布団ですからそれも全部準備しなければならない。
 それこそ枕一つから皆さんが一生懸命の御用で出来た。そして本当に有難いと思います事は、あの丁度その布団を作っとる時にその中に全然関係のない方が布団を十組お供えした方がありました。後で済んで仕舞うてから、ほんにあの十組が助かりましたと云うて、婦人会の方達が言っとりました。あの十組がなかったら足らん所じゃった。神様の御都合には、何時も恐れ入りますよね。
 三十一日間のそして霊祭が非常に多かった。しかも大事な式年祭です。もう本当に昨日も話した事でしたけれども、これだけ沢山先生方もおります。けれども今月はもう本当にフルに使うて頂いた。お使い回し頂いたと云うて夕べも話とりました。忙しい言わば月だった。所が一日だって、こうやって重なった事がなかった。もう整然としたものであった。三十一日間考えてみただけでも。
 是だけでも普通で云うならば不思議な事であった。丁度鳥栖辺りの駅の構内に入りますと、もう何十本あるじゃい分からんレールがもう無数に敷かれております。それがね一つの間違いもなく軌道に乗って走ったり。止まったりして居るあれと同じである。合楽の動きと云うものは、そういう素晴らしい一つ間違ったら脱線という感じである。それは大天地の真小天地の私共の真がです、一つになって混然としている姿である。
 なら私共が完璧と云う程しに出来ていないけれどもです、それこそ足りんとこだらけだけども、そう云う御神徳を受けて行こうとする、これを行けば御神徳が受けられる、おかげが受けられると云う軌道にそれは乗っておるからだと夕べ話させて頂いた。云うならば、出来てはいない、出来てはいないけれども、神様が軌道に乗っておる、目指しておるところは本当のところを目指して居るから、もう出来たものの様にしておかげを下さってあると云うのである。
 私の母の霊様がです、あの遷霊祭のあります時に、私は霊様にご挨拶をさせて貰いよりましたら、こう垂れ下がった粟の穂を頂きました。これが母の信心であったろうかと思わせて頂いとったら、それが何と粟ではなくて粟によく似た草の穂であった。そして母の声をそこに聞く思いが致しました。本当に一生本当の信心も出来なかったのに、この様に丁重に扱うて貰うて有難いと御礼を云うておる様に思うた。
 同時に私の心にもフッと來るものを感じた。本当に母だけじゃない、私の信心もこの位の信心ではあるのに、神様が本当な事が出来たかの様に、この様に一分一厘間違いのない御働きを見せて下さる、現して下さる様になった。本当なものではない私、私は信心はそれだと思うです。俺はほんなもの、俺のは間違うとらんと思う所に信心はもう止まっておると思うです。自分と云うものを掘り下げて見れば見る程に、自分の云うならば心の貧しさと云うか、間違いだらけの自分に気が付くものです。
 けれどもね、そこからより本当なものを求めて行こう、頂いて行こうとするその姿勢には変わりはない。天地が真なら私も真にならせて貰おうとする心は同じだから、その真になったものの様に、天地とそれが私の小さい小さい歯車がです、天地の大きな歯車にずうっと合うて迴っている様なもんです。噛み合っておる。だからこれが一つ回うと天地までが自由になって下さる様なおかげにもなって來る訳です。ですからどうでもあなた方もです、真を目指さなければいかんです。
 本当なものを目指さなければいけんです。それには本当なものを目指させて貰う。その本当なものを確信出来る為に、昨日の富美恵さんの〇少の方の発表じゃないですけれども、神様の間違いなさと云う様なものをです、痛い痒いの中からでも体得さして貰おうと云う、いわゆる前向きの姿勢がいるのです。七月の一月と云う、これは七月の事だけではない、何時も合楽の場合はそうですけれども、特に七月と云う月は大変な月であった。もう様々な御用が教会にはずうっとあり通しであった。
 けれども沢山の先生方が一糸乱れず、そりゃ困ったの。そりゃどうするの、そりゃ一日延べて貰わにゃと云った様な事がなくてです、しかも日々ああ今日も充分お使い回しを頂いて、疲れる事は疲れたけれども、御用にお使い回しを頂いた事が有難い。明日又あれと是がと云う様なです中に、一月終らせて頂いて、それこそ鳥栖駅の構内じゃないですけれども、沢山の線路、軌道の上に乗っているかの様にです、一糸乱れずおかげを受けて来て居ると云う事が素晴らしい。
 今日は皆さん私を含めてです云うならば本当に御神徳を頂くその過程にある。だから御神徳を頂く為にはですなら先ずあの軌道に乗らなければいけない。眼目を間違わない所に置かねばいけない。そしてその途中の場合はです、それこそ今こそ心が肥えておる時だ大きくなっておる時だ。今こそ根肥しの時であると分からせて頂いたら、それこそそれは生のお刺身を食べる様に素晴らしい事だと云う事です。新鮮な果物を食べる様にそれこそ水が流れる様なしたたる様な味を感じれれる時だと。
 それがもう缶詰になったらそれが干物になったら只有難いばっかり何にもない。一切がおかげと云うて、極楽の花の掌に座っておる事は、私は或意味でね、退屈じゃなかろうかと思うですね。御神徳を受け切ってしまう。だからそういうおかげを私は生涯かけての一つの目当てとしてです、それに取り組んで進んでおるその過程で、今こそ根肥しが出来ておる事をです、私は実感出来れる信心をお互い身につけて行かねばいけないと思う。ひとりでに物が出来る様なものだ。
 もうひとりでに物が出来る様にと云う時にはです、もう治まりかえっておれれる時ですから、それは大変な素晴らしい事でしょうね。三代金光様じゃないけれどももうそれこそ何をお届けさして頂いてもはいはいと仰るだけであった。はいそれは結構ですと仰るだけであった。私共でもです本当にはいはいだけで人が助かる様なおかげを頂きたい。所がこちらがまだ、修行の真っ最中ですから、その生々しい修行を皆さんに聞いて貰う。生々しい体験を皆さんにも見て貰う。聞いて貰う。
そこから皆さんと一緒に足並みを揃えて真の信心を目指さして頂く。為には力を受けなければならない修行が必要である。確信を持ってそれに進ませて頂く事の為に、私共はいよいよ根であるところの心を豊に大きくなって行く為の。根肥しが一番求められている時です。もうあれも根肥し、これも研く材料と云う様な頂き方をさして頂いとる時が、実を云うたら一番楽しいお使い回しを。
 もうそれこそキリキリ舞をする様に。お使い回しを頂いておる時が実は一番楽しい時ではなかろうかと、今日は改めてね、お徳を受ける、お徳を受けると云う事は、丁度お徳を受けてしもうたら缶詰の様な事になるのじゃないかと思うたね。悪くはならん。いつまででも保てる。どこでも持って行ける。けどまあだ、缶詰にする前の生々しい体験を日々です、場合には叩かれる事もある。
 お気付を受ける事もある。けれどもこちらが改まって向かえば、また神様が手の平を返す様に、この様なおかげを頂かせて下さる事の出来れる神様を、愈々頂いて行っておる事の有難さがです、本気で所謂根肥しをさせて頂いとる時でなければ到底体験する事の出来ない、それこそ今半と云う時程、大事にせなければならない。一番信心の有難い時ではないか。一番楽しい時ではないか。
 咲いた花よりも蕾の方が楽しみがある様に、だから間違いなく開く間違いなく頂けれると云う確信を持つために、その辺の所の稽古が本気でなさらなければいけない。そして間違いのない、云うならば天地に通うと云うか、交流する軌道に乗ると云うか、只目先目先の事に捕らわれずに、この軌道を走ってさえ行けばです、必ず目的地に着かせて頂く。その確信をもって信心を進めて行きたいですね。
   どうぞ。